「西独、フランス、英国などを回ったのですが、全体として欧州の排ガス対策は規制や管理面では大したことはなく、システムとしてはむしろ日本の方がキチンとしている、という印象でした。

すべて自動車メーカーの主導型で、日本のようにメーカーが世論に押される、という状態ではなかったように思います。

米国については、そちらを回った調査団の方から聞いたのですが、ロスはすごい、という感じでした」

「当時は、自動車メーカーは排ガス対策が遅いということで厳しく批判されました。

しかし自工会としては、遅れているメーカーに先に進んでもらい、全体として足並みをそろえるように努力していました。

そういう考え方の事例の一つとして、私は安全公害に関する特許は業界内部でお互いに公開することを理事会に提案して承認してもらいました。

具体的には実現した例はなかったようですが。

このように随分努力したつもりですが、このような態度が外部から見ると、自工会は防戦一点張りだ、というように取られたようです。

当時、メーカーの中でも排ガス規制の見通しについて明暗いろいろありました。

これは、あるシステムを実地に応用した場合に、当然ある程度のバラツキがでる。

それを控え目に見るか、前向きに見るかによって大きな違いがでてきます。

その違いによる見通しの差です」

この時代を乗り越えて、今は中古車トラックですら規制をクリアした物しか走ることはできません。

調査団の団長だった元日野自動車副社長の家本潔氏は、昭和41年から50年まで、日本自動車工業会の安全公害委員長として、安全公害問題に取り組んだ。

同氏は当時を語る。

「日本自動車工業会としては昭和40年に入ったころから安全公害問題を重視し、41年に安全公害委員会を発足、私が自工会の理事の中でただ一人の技術屋出身だったこともあって委員長をまかされました。

44年ごろ自動車の排ガスが大きな社会問題になり、自工会として海外へ調査団を派遣することになったのです。

もっとも、私たちとしては排ガス規制について、やるべき方向は大体はわかっていたのですが、世界の状況がどの程度動いているのかをよく知って対応しなければならない。

つまり一酸化炭素(CO)だ、炭化水素(HC)だ、といわれるが、海外の先進国では、環境という観点からどの方向を最優先に考えているのかをよく聞いて、最も効果のある方向に重点を置こうこれが調査団の目的でした」

現在の排ガス規制は中古トラックも対象になり、当時のように黒煙を上げて走るなんて事はありません。

対米輸出の草分け時代に米国で苦労した川添惣一さんは「当時は米国内に日本製の自動車が少なかったせいか、現在からはとても考えられないようなことがありましたよ」と苦笑いをしながら、次のような想い出話をした。

「ある時、ボストン市郊外の米人ディーラーから新聞広告の切り抜きを送ってきました。

読んでびっくりしましたね。

日産自動車のダットサンを西ドイツ製と称し、しかもギャランティ(保証期間と保証走行距離)を5年間で50,000マイル(約80,000キロ)と書いてあるのです。

当時のダットサンのギャランティは、たしか3年間で3,000マイル(約4,800キロ)だったはずですから、ものすごく差があります。

早速、電話で文句をつけたら、そこのディーラーはこういうんです。

『ダットサンはドイツ犬のダックスフントに発音が似ているから、西ドイツ製ということにした。

性能は本物の西ドイツ製のフォルスクワーゲンに決して負けないと思う。

車も頑丈で、50,000マイルくらいは十分もつ。

もし保たない場合でも3,000マイル以上のギャランティは自分が持つから決してあなたに迷惑はかけない』。

困った私は『ダットサンを高く評価してくれるのはまことにありがたいが、日産自動車としては自社製の車を西ドイツ製にされたり、ギャランティを変えられるのは困るから、この種の広告はやめてほしい』と説得しました。

そのディーラーはなかなか頑固なおやじだったが、さんざん頼んでやっと広告を止めてもらいました。

そのディーラーとしては、そのころ米国内でフォルクスワーゲンの評判がよかったのにヒントを得て、日本製の車というよりも西ドイツ製といった方がよく売れる、と判断したのかも知れません。

とにかく、ダットサンをダックスフントに似ているから、といわれたのには参りましたね。

今の日本の自動車や中古トラックの米国内への進出ぶりから考えると、全く隔世の感があります」

「娘たち2人とドライブに出かける時は、ダットサンを見つけたら1台につき25セントやることにしました。

娘たちは小遣いをかせこう、と目をサラのようにして探していましたよ。

ところが目にとまるのは1日にせいぜい4、5台、多い日で10台くらいでした。

しかし当時社長だった川又克二さんが現地へこられた時は、運よく17台も見つけたのでホッとしたのを覚えています。

とにかく当時の米国での日本の自動車の位置づけは、そんなものでした」

今や日本車は中古車トラックですら世界各国で活躍しているのを考えると、凄い時代だとしか言えません。

日本の自動車工業にとって、明治、大正期を文字通りの「草分け時代」とすれば、昭和の初期から1945年(昭和20年)の敗戦までは「夜明けのころ」といえよう。

この時期をさらに分ければ、前半の「昭和ひとけた」は、日本の巨大な自動車メーカーが相次いで誕生の産声をあげた揺藍期であり、後半の昭和11年から20年にかけては、戦局が日中戦争から第二次世界大戦へと拡大する中で、ガソリン不足のため代用燃料車や電気自動車の開発、実用化に専念した苦難の時期であった。

現在、日本の自動車産業の中心となっている主な自動車メーカーのうち、トヨタ自動車、日産自動車、マツダ(前身は東洋工業)、本田技研工業、いすず自動車の5社は、いずれも「昭和ひとけた」の時期に、なんらかの形で本格的な第一歩を踏み出している。

昭和の初期といえば、世界的な大不況に襲われたとはいえ、日本の経済社会が全体として近代化の道を急速に歩み始めたころだ。

だからこの時期に巨大な自動車メーカーの"芽"が出そろったのは決して偶然とはいえない。

近代化が進み、不況の今の時代は何か"芽"が出るものがあるのでしょうか?

中古トラックが輸出できるだけまだ大丈夫な気もしますが・・・。

曲豆川順弥の白楊社は、大正年間にオートモ号というすぐれた自動車を製作し、国産輸出車の第一号としての名を自動車史に止めたが、もう一つの功績は人材を集め、育成したことだろう。

この点について『日本自動車工業史稿』(自動車工業会編)は次のように述べる(抜粋)。

「大正12年から13年にかけてのころは白楊社の(自動車)製造が活発になった時期で、従業員は約250人にのぼり、多くの人材が集まってきた。

豊川順弥氏によると、月給は世間の約3倍を支払い、その代わりに最大限の能力を発揮してくれるようにしむけたという。

白楊社の功績は人材育成の点で顕著なものがあり、(この人たちは)やがて各産業界に支配的な人物として巣立って行った」

この巣立っていった人が後に素晴らしい日本車を作り、今の中古車トラックでも輸出できる時代を作ったのです。

複数の家電販売店の一時保管から積合せによる同一方面への共同配送システムの設計、出荷指示の入力からマスターコードによる方面別出荷指示書と配車表の作成などのオンラインシステムは、純一専務の緻密な配慮の産物といえます。

また、目下、研究中の家電宅配共同化システムも純一専務の家電販売店とのコミュニケーションのなかから生まれた新しい構想でした。


戸田倉庫と志木倉庫の配送センター業務が軌道に乗ったことで、販売店物流は大幅に効率化されましたが、問題は消費者への据付け工事をともなう製品の配送でした。

とくに冷暖房のエアコン、衛星テレビのアンテナ、ビデオ、ステレオなどの据付け工事は、販売店とは別個の工事会社が請負っています。

しかも、工事会社は販売店毎に手配されていますから同一地域内でいくつもの工事会社が交錯しています。

これをトラック中古車配送センターから直接、消費者の家庭に配送し、同時に据付け工事も手がければ、小売店や工事会社への横持ちはカットできるわけでした。

もちろん、この家庭への直配の共同配送システムを軌道に乗せるには、解決すべき多くの課題があり、容易ではないようでした。

いま、中小のトラック運送会社では経営者の後継者問題に関心が高まっています。

子息がトラック運送業を継いでくれないので廃業したり、経営権を譲渡したりするケースをよく耳にします。


J運輸の場合も、もし貸切り専業の中古車トラック運送業でいたら、果たして順調に代替わりが進行したかどうか。

子息の純一さんはまだJ運輸㈲とJ運輸倉庫㈱の専務取締役で、社長の肩書きになっていませんが、J社長は今は亡き奥さんの提言を入れて、56年から社内の采配は純一専務に任せることにしました。

J社長にいわせると、「まだまだ世間を知らないし、甘い」と手厳しい評価をしていますが、父親からみれば、子どもはいつまでも子どもで頼りなくみえるもの。

しかし、実際は父親のみえない部分で意外な成長をしているものでした。

それに、トラックはいつも傾いていた。

道路に掘りこまれた幅三寸深さ一尺位の馬車の轍に、片方の車輪をはめこんで走っていたからです。

乗合は遠野まで50銭。

歩いて三時間の道のりが三分の一以下になるとはいえ、米一升が25銭の時代だから、ずいぶん高かったんですね。

それでも中古トラックが見えると、つい『乗せてくれえ!』と言ってしまう。

すると『こんでらあ』と答える。

『外でもいいからあ』といってドアの下の踏み台にとっつく。

それでも料金はやっぱり50銭でした」


やがて昭和元年には、川井村出身の前川さんが遠野・宮古間に定期貨物輸送の路線を開設、翌2年には同じ路線に定期乗合自動車を走らせる。

更にその前後、個人の貨物輸送やタクシーを開業している。

遠野は、他の地域に比べて割と早く初期的なトラック普及の時期を迎えた。

例えば大正13年には、内田という人物が東陸トラック運送事業を開始したほか、附馬牛の石直という人が中古車トラックを7百円で購入して、木炭を主とする貨物輸送に着手している。

彼は、木炭1俵が五十銭の当時、附馬牛・遠野間を1俵あたり五銭で、一度に約70俵を積んで日に2往復した。

そのことについて、長年、附馬牛の小学校長の要職にあった郷土史家の福田氏は、次のように語る。

「トラックがやってくると『グァン、グァン』という音がするので、目より先に耳が気づく。

するとワンパクどもが飛び出してきて後ろの荷台にとっつく。

道は狭い、スピードはのろい。

だから、危なくないわけです。

つづく